金言寺と大銀杏の歴史

 金言寺は正安2年(1300)日尊(にちぞん)上人によって開かれた日蓮宗のお寺です。今から722年前鎌倉時代のことです。 日尊上人は日蓮聖人の高弟日興上人のお弟子です。日興(にっこう)上人は総本山身延山に近い本門寺(静岡県富士宮市)を、布教活動の拠点として多くの弟子や信者の教育に当たっておられました。日尊上人も修行僧の一人でした。

鎌倉時代は今日のコロナ禍と同じように飢饉・疫病が蔓延し混沌とした社会でした。苦しむ民衆を救済するため、安穏な社会の実現を目指して日興上人は法華経の教えを説いておられました。

その時、ひらひらと舞い落ちる梨の葉に目を奪われた日尊上人は受講態度を叱責され即座に波紋となったのでありました。日尊上人はこのことを深く反省し、全国各地に布教弘通に出発されます。

最初に定めた布教の地は島根県奥出雲馬木の郷でした。

日尊上人は東海道から京都へ、備後路(岡山)より中国山地を越え晩秋の奥出雲馬木の地に入られたました。奥深い草庵に一夜の宿を乞い庵主と夜長の談議が始まります。社会が混沌とする現状の解決を求めて白熱した問答が続き、庵主は日尊上人との一問一答に心酔されていきます。

最後に囲碁の対局となったころには夜が白み、対局後イチョウ樹で作られた碁盤を日尊上人が庭先に置かれたところ、後にその碁盤から芽が出、現在の大イチョウになったと言い伝えられております。上人は寺号を金言寺と定め庵主を住職とし、次への法華経巡教の旅へと出発されました。

金言寺は日尊上人を開祖とし、熱心な信者によって法灯は守られ継承されてきました。

80年後の永徳年間(1382-1384)摂津(せっつ)の国(大阪)から馬木の地に地頭職として赴任した馬木城主馬來氏綱(まきうじつな)は熱心に日蓮宗を信仰したので馬木地区一円に法華経の教えはさらに広まりました。

江戸時代になると当地では題目講と称される信者の組織ができ、やがて檀家制度が整い本堂と庫裡が建ち、今日の金言寺の体制が出来上がりました。当時から熱い信仰心とお寺大切に思う地区の方々により金言寺はささえられてきました。今も草庵としての茅葺のお寺は当時の面影を残し、周囲の風情と調和して参拝者の心のよりどころとなっています。日尊上人ゆかりの大イチョウが境内の眼前に屹立と聳え立っています。

「碁盤から芽が出る」いかにも奇跡の様なお話ですが、大雪や台風で折れ枯れ朽ちたと思われる幹からも芽が出たことがありました。実に生命力の強い樹です。                      

このイチョウ樹は樹高33m、幹周り6.3m、枝下には気根(木の根)があり、それが乳に似ていることからこれを拝むと乳がよく出るといわれて、戦前戦後の母乳が乏しく、ミルクもない時代には子育て中の母親の信仰を集めた霊木です。育児が大変な時代に乳飲み子を背負い大銀杏に合掌するお母さん。子供の健やかな成長を祈る姿が絶えませんでした。

金言寺の茅葺屋根本堂と大銀杏